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2015年6月23日火曜日

台湾秘密結社青幇と中国人民解放軍:焦庭標と南京事件

閑話休題。
今日は昔話。
とは言っても、現代人が知る事のできる歴史は勝者の歴史、与えられた歴史のみで、歴史学者でもなく、歴史の点数欠点スレスレだった深田が語れることはあまりない。
のですが、南京政府から外国へ亡命した国民党、黄埔軍学校に居た学生の更にお子さんから聴いた話を書きます。その当時の学生をAさんとします。
孫文はハワイ生まれの中国民主主義革命家(一説によると、米国政府から送り込まれたとも言われてる)ですが、共産党によって中国生まれだと書き換えられたようです。周恩来は孫文の部下として黄埔軍学校で働いてました。
1925年、孫文の死後、国民党ではポジションを維持できないと踏んだ周恩来は、共産党に転向します。
周恩来は国民党から共産党に寝返る時、黄埔軍学校の学生達に自分に付いてきて共産党に入るかどうかを訪ね、拒否した学生を全て殺して川に流したそうです。
Aさんは、その時、門の警備に当たってましたが、川の上流から死体が流れてくるのでなんなんだろうと思って見てみたらクラスメートだったそうで、これは危険だと思ってしばらく隠れていたそうです。
周恩来が上海に渡って上海政府を樹立。毛沢東は全然関係無かったそうですが、歴史は塗り替えられて毛沢東の傘下に入ったように今はなってるそうです。
Aさんは蒋介石が戻ってきて、助かったと思ったのもつかの間、ミャンマーに飛ばされてしまったそうです。
Aさんは南京事件ののちに焦庭標の番頭さんに出会います。焦庭標は青幇杜月笙の片腕で、東条英機と中国共産党と国民党の間でトリプルスパイ活動を行なってました。
焦庭標は当時の中国共産党からのミッションで、東条英機に南京には市民の服装をした共産党のゲリラ兵が居るという情報を流したそうです。
それが、焦庭標が今日、抗日英雄と呼ばれる所以ですが、自国の民を犠牲にして英雄というのは、なんとなく民間人からするとピンと来ない話です。
事実はどうか分かりませんが、今日はこんなもんで。

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